とうきょうメネット 3月号


メネット会のあゆみ

露崎昌枝

 日本のメネットの活動の始まりは、1928年に大阪クラブがチャーターした時、「夫人を同道のこと」とブリテンに記されていた。夫婦同道?で公式の会に出席する事は当時の日本ではY'sが始めてであったと伝えられている。神戸の富尾メネット(故人)が1961年シカゴの国際大会に日本人メネットとして参加されたのが始めてだった。私も1963年第18回日本区熊本大会に始めて参加した時全国から300名もの人達が集い、出合を喜び、友情を確かめ合う様子を目にし熱いものを覚えました。理事夫人がメネット会を開催し各クラブメネットがメンを助け古切手やYのバザーに協力等の活動報告された時はびっくりしました。社会は当時国外へ出る事もままならない時でしたから、大きなショックを受けました。先輩達の魅力、その時の感動が若い私のY'sメネットへの原点でした。
 70年に国際協会から富尾夫人に日本でもメネット事業主任を置く様にとの連絡が入りました。この頃より各地でメネット会が出来、活動が活発になって来た時でした。笈川メネット(東京むかで)が初代メネット事業主任を引き受けられ日本全国に連絡網が出来ました。但し連絡の為の費用つくりに笈川メネット自らクッキーを焼かれ集った委員達が買ったり、鈴木美藤さん宅に集って持ち寄りオークションをしたりして、日本区メネットの資金造りに励みました。(当時は区からの助成がなかった)合同メネット会やオークションを通して各メネットの親交も深まり、Y'sへの協力も密になって行きました。種々の事情でメネット会を持てないクラブ等は、合同メネット会が唯一メネットのつながりでもありました。東京クラブの発会からの歩みは、日本区メネットの歩みでもあると思います。「少し小さくて可愛い」メネットの種は、東京クラブから育ち各地に根づいて行きました。今日メンの例会に常に12〜3名出席し、メネット独自の新年会やメネット会にも14〜5名出席するクラブは東京クラブをおいてないでしょう。
 一昨年京都キャピタルの岡本さんから西日本区の「ワイズメネット活動の手引」改訂版が届きました。西高東低ではないけれど、今迄の伝統を守り、メネット活動が東西に分かれてからも益々盛んになっていく西日本区メネット会と、1973年に新国際憲法の採択でワイズメンズクラブに女性の入会を認め、女性だけのクラブも出来て東日本区にはメネット会の無いクラブも表れました。そして東日本区のメネット会は、がらっと様変わりして委員会制度になって、部の主査の中からその年の委員長が選ばれ運営する様になり、一応合理的にみえる制度だけど、一年前に委員長補佐を決めて委員長を補佐し、メンの理事と同じ様にウォーミングアップする方が、会の運営はスムーズにいくと思われるのは老婆心が過ぎるのかしら? 今私は、メネットが心を一つに手を携えて貯えるファンドを、メネット独自の目に見える型で、アジア等のプロジェクトに使える様にしたら、と提案をしたいと思っております。